八代小学校

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 本校は、昭和30年4月1日代陽小学校より分離し、八代小学校として独立開校してから平成16年度に創立50周年を迎えた。
 開校当時、八代市の中心部に誕生した新しい校区は、八代内港、外港の整備とともに西へと延び、将来の発展が期待された校区でもあった。
 校区に「八代」を冠した理由も、分離当時の地域住民の熱意と抱負によるものであった。校区の東部は、八代商業地区の一部とそれを囲む住宅街からなり、その中核は塩屋八幡宮を中心とする塩屋町と、球磨川河口に船をつなぎ、商業、漁業、海運業を営んだ蛇篭町であり、分離独立した当時の繁栄ぶりは、当時を知る者の常に懐かしく思うところである。
 それに対し、西部は、臨海工業地帯が形成され、八代外港には外国船も出入りし、活況を呈している。また、この地域は工業・住宅・商店が大部分を占め、大型店舗等の開店に伴い他県から転入してきた住民も多く、極めて開放的である。
 また、本校区唯一の農業地帯であった築添地区は、築添団地の建設をはじめ、住宅の新築が相次ぎ昔日の面影はない。
 本校の児童数も、都市のドーナツ化現象や少子化傾向が重なって年々減少を続け、創立時に1241名、ピーク時に1512名(昭和31年)であったものが、本年度は388名となった。この傾向は今後も続くと思われるが、大型マンションの建設などによりクラス編制の変化も考えられる。
 なお、昭和60年度には管理棟が新築され、併せて前庭、運動場が整備され学校の外観は一変した。40年来の教室棟は老朽化のため、平成12年7月より解体作業が行われ、新しい教室棟が平成13年9月に完成した。
 PTAをはじめ、校区各種団体や校区民の学校教育に対する関心は高く、学校への深い理解と惜しみない協力には頭の下がるものがある。学校創立時は、校舎が半分完成だったため、上の学年が新校舎に移り、残りの学年は代陽小学校の一部に残留した。新しい学校に対する校区民の期待は大きく、校地盛土作業の記録に残るだけでも延べトラック1400台分の土の寄贈を受け、創立時の職員、住民、児童が三位一体となって梅雨期も含め連日多大な苦労を払われたことは、今でも語りぐさとなっている。
 そのような歴史は現在にも引き継がれ、自主的で活発なPTA活動が展開されている。地域住民、地域団体の協賛を得て毎年開催される「白鳥祭」は、児童が心待ちにしている行事の一つであり、PTAおよび地域の持つ教育力には十分期待できる。
平成16年度は八代校区総社教の主催により「創立50周年記念式典」が開催され、記念誌も発行された。
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